
这篇小文是我在某日语书上看到的。
读完后非常的喜欢,
感觉作者构思巧妙,语句也运用的很好。。
是篇令人爱不释手的哲理散文。
因为感觉不错,而文章也不长,所以特地手工录入,放到自己的博客上。。
紫色部分是我认为写的很好的句子^^(其实整篇文章的语句都很喜欢啊。。>_<)
本文的第一句话就吸引我继续读下去的^^
人生の階段
私は一本の長い階段を設ける。一年三百六十五日経つと、一段上にのぼる階段である。その階段の六十八段目の一番上のところに私が腰を降ろしている。そして妻、二人の息子、二人の娘、その配偶者、そして孫たちというように、長い階段のところどころに、十何人か男女が配されている。下から二段目のところに、去年(昭和四十八年)生まれた幼児二人が、転がらないように紐で結びつけられている。どちらも男の子である。まだ這うこともできず、口もきけない。しかし、何といっても、この嬰児二人が際立って溌剌としている。これから何十段でも階段をのぼって行くエネルギーを、その小さい体に詰め込み、いかなることでも実現できる可能性を身内に貯えている。まだ人生のいかなる汚れにも染まっていない。本能的母を求め、乳を欲しがる以外、いかなる欲望も持っていない。人を羨むことも、人を憎むことも、歓心を買うことも知らない。栄誉も、お金も無関係である。時々笑うが、神さまが笑うことの練習をさせているとしか思われない。ただ無心に笑うだけである。
人間はみな、この嬰児から出発している。そんな思いが突き上げてくる。このふたりの嬰児が、私の腰掛けているところまでのぼるのは、たいへんである。嬰児の居る二段目のところから上を仰ぐと、気の遠くなるような遠さであろうと思う。三十段目から四十段目あたりにかけてばら撒かされている息子や娘たちは、いつか青春期をぬけて、壮年期に入ろうとしている。当然私などの知らないそれぞれの人生の哀歓を経験していることであろうと思う。私は残念ながら、そこへ入って行ってやることはできない。いかなる問題があろうと、それぞれ自分たちで処理してゆく他はない。父親が苦しんだように苦しまなければならないし、父親が悲しんだように悲しまなければならないであろうと思う。そういう自分で歩き、自分で処理して行かねばならぬものが、人生というものであろうからである。
录入:沧炎沁梦